近ごろは、高齢化社会のせいでしょうか、人生の終わりについての話題をよく耳にします。散骨もそのひとつでしょう。散骨を望まれる方が増えているようですが、その理由は、お墓を購入する余裕がない、お墓に参ってくれる人がいない、家族にお墓の世話をする負担をかけたくない、人生をさっぱり終わらせたい、大好きな自然の中に葬られたいなどです。散骨は、遺骨を山や海に撒く埋葬の方法ですが、人に迷惑をかけないことを考えると、現実的には、海に撒く海洋散骨しかないように思います。
日本ではお墓に埋葬するのがほとんどですので、それ以外の方法は奇異に感じられるかもしれません。しかし、長い歴史を振り返ると、決してそうではありません。個人がお墓を持つようになったのはせいぜい江戸時代以降で、それまでは、良い家柄の人しかお墓を持てず、庶民は野山に埋葬するのが普通でした。「葬」という漢字は、「死」という字の上と下に「艸」(くさ)をつけたものですが、草むす土の中に屍を隠し去るというのが元々の意味だそうです。古代の中国でも、遺体を草原に埋葬したことが伺えます。
ところで、散骨は、現在の日本の法律に照らしてどうなのでしょうか。関係のある法律のひとつは、「刑法」第190条です。これは死体遺棄罪についての条項です。「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、3年以下の懲役に処する。」遺骨の遺棄を禁止していますので、散骨もこの法律に違反するのではないかという懸念があります。しかし、この法律は、遺骨が粗末に扱われて捨てられ、人々の宗教的感情が傷つくのを防ぐことが目的だと考えられますので、散骨自体が違反するのではなく、扱い方によって違反すると思われます。散骨を、弔いの気持ちを持って、厳粛な埋葬の式として行うなら、決してその趣旨に反しないでしょう。もうひとつは、「墓地、埋葬等に関する法律」第4条です。「埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行つてはならない。」文字通りに取れば、墓地以外の場所に埋葬してはならないのですから、海に埋葬することもしてはならないことになります。しかし、この法律ができたのは70年ほど前で、そのときには、散骨などだれも考えず、想定されていなかったので、違法だとも合法だとも言えないそうです。その点について、国は、「墓地、埋葬等に関する法律においてこれを禁止する規定はない。この問題については、国民の意識、宗教的感情の動向等を注意深く見守っていく必要がある」※1という見解を示しています。とはいえ、海はいろいろな人々が共同利用する場所ですので、他に迷惑がかからないように、たとえば、漁業者が水産物への風評被害を受けることがないように、十分に配慮することが必要です。
さて、人の死と埋葬について、いろいろな考え方があるでしょうが、私は牧師としてキリスト教の考え方を紹介したいと思います。聖書には、「神は、土で人を形造り、霊を吹き込まれた」※2と書かれています。これは、人が、「体」と呼ばれる自然界から来た要素と、「霊」と呼ばれる神から来た要素からなっていることを教えています。体だけなら、自然界の一部に過ぎませんが、神から来た霊があるので、人の命は限りなく尊いのです。キリストは、「人が全世界を得ても、その命を損じたら、何の得があろう」※3とまで言っておられます。死は、その霊が旅立つ尊い瞬間です。私たちはすべての人の霊が天国に行けるように切に祈っています。「霊が出て行くと、人はおのれの土に帰る」※4と言われるように、霊が去った体は、もはや物に過ぎず、もともと自然界から来たものなので、自然界に返すのです。それが埋葬です。ですから、お墓は、亡くなった方の霊の住む場所でも、その霊を祭って拝む祭壇でもありません。亡くなった方を記念し、天にあるその霊を覚える場所であり、残された人々が、自分も死ぬべきものであることを思い、天国に行けるように祈る場所です。霊がお墓に住むわけではないので、お墓が絶対に必要なわけではなく、散骨という形で埋葬しても問題はありません。ただ、お墓の場合と違って、亡くなった方を思い出し、天国を思う場所がありませんので、何らかの形で、そのことを補うと良いのではないかと思います。
チャペル・こひつじ牧師 鷹取 裕成
※1 東京都福祉保健局のホームページの「散骨に関する留意事項」参照 ※2 創世記2:7 ※3 マタイの福音書16:26 ※4 詩篇146:4